縁起

等覚寺の沿革

当寺は山号を法雨山と称し、曹洞宗(禅宗)である。
創建の時代は明らかでないが、千葉六党の内、中島城主海上山山城守(常直)城内に観音、薬師、地蔵の三尊体を安置していた。
然かるに明徳元年(1390年)の春から夏にかけて、疫病が流行し、多くの人々が苦しんだ、そのとき此の三尊体が夢中に化身の姿を現し、善く庶民の句を救うを夢見て、一仏に千体の像を彫み一寺を建立し、三千仏体を安置する。三千仏体の成就により本寺を成就院という。
これが当時の始まりであり海上山城守(成就院殿雲峰理鏡大禅定門応永7年11月7日逝去)を以って開基とする。
その後天正18年(1590年)松平外記伊昌、軍功により銚子飯沼二千石を拝領し、領内巡視の際当寺に参詣して、古跡の霊刹なりとて家康より拝受せる伏見亥の口陣屋の建物を船廻して、本堂、庫裡を再建し、慶長2年(1597年)3月香取郡小見川町岡飯田、芳泰寺より春芳和尚を請して開山とする。

 初代伊昌公(五井松平家の五代目)は慶長6年(1601年)9月8日逝去され、大阪天満の正泉寺に葬る。
二代忠実公は慶安5年8月23日京都二条城にて逝去され、等覚院殿一宗源無大居士の法号をおくられる。これより以後当寺を等覚寺と称する。
また忠実公を中興開基と仰ぎ松平外記代々(二代忠実~十五代忠凱)のお墓も現存している。
五代目忠明の時に遠州志土呂に移封される。
現在の本堂庫裡は改築されてはいるが、当時の陣屋の材料はそのまま使用されている。

成就院の建物は三千仏体を安置しているので三千堂ともいい、元禄年間(1700年頃)再建されたものと思われる。他に銚子市の文化財に指定されている鎌倉時代の仏像二体、釈迦如来像と薬師如来像を安置してあり、ともに毎年7月11日に御開帳を行い一般に公開している。
また開基海上公の本像も安置され(約200年前に作られたものと推定)安政5年(1859年)に再建されたものでいたみもひどかったが、海上公ゆかりの信者の寄進により昭和53年(1978年)再建された。